これが「エモい」ということ?

体調不良で外出のできない父は私に、袋麺、バナナ、ヨーグルトの調達を頼みました。

 

スーパーで購入したそれらをエコバッグへ詰め、父の住まいへ気持ち足早に向かいました。

 

時刻は21時前、徒歩で30分弱の道のり。父の夕飯の時間がかなり遅くなってしまいます。

 

玄関越しに受け渡しを済ませた後、ゆっくりと自宅への帰路につきました。

 

生まれてからずっとこの街に住んでいますが、一度引っ越しをしたために、この辺りを歩くのは随分と久しぶりです。

 

初めて勤めた会社で、どうにも営業という職種が性に合わず、その苦しさから眠ることができなかった深夜に家を抜け出し、ギコギコとこいでいたブランコがありました。

 

高校に入学したばかりの頃、必死に鬼ごっこをした結果、足をつっかけて転んだアスレチックは無くなっていました。(5つ下の幼なじみは、そんな私にも容赦なくタッチをしました)

 

道すがらに点々とあるテーブルベンチに母やその友人がよく集まっていたことが思い出されました。

 

駄菓子屋は無くなっていました。

 

遊びに行く際には100円を握りしめて、駄菓子屋で各々が好きなお菓子を買ったことが思い出されました。

 

せっかくなので、当時よく買っていたお菓子を振り返ってみます。

 

まずはコーンポタージュ。30円とお高めではありますが、ボリューム満点。

 

 

カットよっちゃん。当時20円くらいのイメージだったけれど記憶違いかもしれません。

 

 

今でも大好きぷくぷくたい。

 

 

にんじんも、やはりボリューム重視の私はよく選んでいました。

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ガムは、フィリックスガム(今回初めてこの黒猫のお名前を知りました)か、オレンジまたはグレープのマーブルガムを選ぶことが多かったように思います。フィリックスガムでは当たりを引いた記憶があります。

 

 

わさびを食べるのに大人を感じていたんだと思います。(普通に味も好きでした)

 

 

理容室は変わらずそこに在りました。

 

通称「鳩ぽっぽ公園」は遊具が撤去され、空き地になっていました。とかく略しがちな子どもたちはその公園を「はとぽ」と呼んでいました。

 

はとぽには幅の広い滑り台がありました。

 

その滑り台の上部に、子どもたちが横一列に座るか寝そべるかし、滑り台の下から駆け上がった1人の鬼(ワニ)が、子どもたちを引きずりおろす「ワニワニパニック」と呼ばれた危険な遊びが流行っていました。(とても痛いので、真似しない方がよろしいかと)

 

それから、吊り橋のようなアスレチックでもよく遊んだような気がします。

 

このはとぽ周辺では、フリーマーケットやカラオケ大会が行われたりもしました。(今もでしょうか?)

 

夏には屋台が並び、川の上で花火も上がりました。中学に上がってからは、浴衣を着てこの祭りに出かけたこともありました。

 

それから進んだ先にあるトンネルには、かつては両端にずらっと自転車が駐輪されていたはずですが、今では大量の「駐輪禁止」のポスターが貼られ、一台も自転車は置かれていませんでした。

 

ピンク公園の隣にある小さな空き地で、幼なじみが集まって花火をしている際に、誰かが唐突に「海に行きたい」と言い出し、実際に海に出かけたこともありました。

 

たどり着いた海は真っ暗で随分怖かったけれど、私の中にある数少ない「若いからこそ謳歌できた青春」の一つです。

 

一人で何でも楽しめる質だとは思いますが、子どもの頃のようなことはもう出来ないんだなと思うと、やはり少し寂しく感じられました。